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The seaside of Shonan

変わりゆく風景の「今」を残したい

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私のとっての「3.11」 

多くの人の運命を変えた、史上稀に見る大災害「3.11」―
あれから一年。
周知の通り、あの震災は広い範囲にわたって大きな影響を与え、そして今も尚様々な所にその影を落としています。

多くの人がいろいろな形で「あの時」を迎えたのでしょうが、ここでは私にとっての「3.11」を稚拙ながらも綴り、自身の覚書としておきたいと思います。



日本時間3/10、夕方。私はアメリカから一ヶ月ぶりに日本へ帰るべく、現地を後にした。この時は平穏な春休みがまだ続くことを疑いはしかったし、何より帰国後の九州旅行を楽しみにしていた。帰国翌日は学校のガイダンスがあり、その数日後には九州に出かけるという予定だった。飛行機を乗り継ぎ、現地を出てからおよそ20時間、いよいよ日本に到着というところで「あの時」を迎えた。
私の乗った飛行機は既に着陸態勢に入っていた。着陸予定時刻は14:50だったと記憶している。アメリカ東海岸から日本まではおよそ14時間。長旅の疲れもあったし、1ヶ月ぶりの日本帰国に安堵している面も当然あった。通常なら着陸態勢に入ってから20~30分ほどで着陸となるのだが、この日は様子が違っていた。いつになっても下りる気配がない。高度を下げてるようにも思えなかったし、30分以上経ってもなお雲の上を飛んでいた。「なんか変だな」。乗客は一様にその異変を感じ、機内も少しばかりざわめき始めた。とはいえ、この時点では、空港の混雑などで着陸できないという程度のトラブルだと思っていた。地上で未曾有の大災害が起こっていたことなど知る由もなかった。

しばらくして機内アナウンスが入る。
「地上で”何らかのトラブル”があったため着陸できません。旋回を続けております。」
既に時計は到着予定時刻を過ぎていたが、この時は地上で何があったのか全く検討がつかなかった。
ほどなくして、再びアナウンス。
「地上で地震があったということで、着陸できません。」
しかし、この時点でも局所的で中規模な地震程度だとばかり思っていた。何しろ日本は地震大国だし、このくらいのことはよくあるのだろうと・・。今思えば、至極楽観的であった。

ところがその後のアナウンスによって、状況が一変する。
「地上で『大地震』がありました。成田空港も閉鎖されてしまったため、地上に下りれる目処が立っておりません。」
機内も騒然となった。どこで発生したかはわからないが、少なくとも飛行機が下りれなくなるほどの「大地震」。いつになったら地上に下りれるのかすら分からないという不安。そして実家は、親戚は、友達は大丈夫なのだろうか・・・。このとき初めて事の重大さを認識したのだった。

30分ほど先回を続けた後「羽田に下りる準備をとっております」との情報が入り、成田到着予定のおよそ1時間30分後、そのアナウンス通り羽田にようやく着陸することが出来た。16時半頃だっただろうか。機内から見る東京の空はまさに「この世の終わり」のように思えた。おそらく不安のせいで実際よりも暗く、そしてどんよりと見えたのだろう。所々オレンジに染まった鉛色の空を見ると、不安は募る一方だった。
地上に下りてからも、「余震が続いているためタラップが着けられない」ということで機内から出ることは出来なかった。CAの配慮で全員にお菓子が配られ、飲料が行き渡る。そして、使用が許可された携帯で初めて「宮城で震度7」というニュースを目にした。友人からもメールが来ていた。「福島の親戚に連絡をとったほうがいいよ」―
そうだ。私の祖父母をはじめ、福島には親戚が多く在住している。真っ先に祖父母に連絡したが、当然の如く繋がらない。次いで叔父、叔母と・・・駄目だった。これはいよいよ大変だ…。気が気でなかった。

機内では、やはり携帯で家族や友人に連絡を試みる人が多かった。皆せわしなく機内をうろつき、不安な顔で落ち着かない様子であった。基本的には着席を求められる飛行機内で、これだけ多くの人がウロウロするという光景はそれだけでも異様だった。中には乗務員に詳しい説明を求めるものもいたが、当然乗務員も見通しは分からないようだった。乗務員の方々も不安で仕方なかったはずである。しかしそれでも、それを表情に出さずに対応に当たる彼女らの姿は健気であった。

機内にいても余震は絶え間なく襲ってきた。とても気持ちの悪い揺れだった。思わず酔いそうになる横揺れが続き、その度に機内の不安感は一層強まっていく。
飛行機から出たのは17時半頃だったかと思う。いつものような「通路」ではなく、階段状のいわゆる「タラップ」がかけられ、17時間ぶりに機外へと出ることができた。その後はバスでターミナルへと運ばれ、何とか一つ目の不安、つまり「いつ地上に下りれるのだろう」という点は解消された。しかし交通網は麻痺し、ここから帰宅する手段がない。列車は全て止まり、バスもない。ホテルは既に埋まっていた。ならば、とタクシー乗り場に向かったが、そこには200人を超すの長蛇の列。1時間待っても車は数台しか来ず、この時「今日中の帰宅は困難」であるということを悟った。まぎれもない「帰宅困難者」だった。3月だというのに外は寒く、風が冷たかった。

タクシーを諦め、ターミナルの中へと戻ったのが19時過ぎ。飛行機は続々と到着する一方で、その多くは帰宅困難者であるから、当然のようにターミナル内は人が溢れていった。既に中央部は至るところに人が陣取り、ダンボールなどを敷いて寝ている人も目に付いた。トイレの前、カウンターの前、あらゆる場所に「所構わず」「なりふり構わず」人がひしめき合っていた。恐ろしい光景であった。
ターミナル中心部は前述の状況だったため、私は仕方なくターミナルの一番端、つまり一番出口に近い部分に荷物を置き、そこで一晩を明かすことにした。とにかくこの場所は寒い。人通りは少ないが、一方では風の通り道であった。スーツケース内には服類はたくさん入っていたが、もちろん寒さの根本を解決するには至らなかった。荷物を置いてひとまず床に座り、先ほど繋がらなかった親類に電話をかけ続けた。「頼む、出てくれ!」
しかし、何度やっても結果は同じ。ここで一旦諦め、次に家族のいるアメリカへと連絡を試みた。幸いこちらはすんなりと通じ、とりあえずわが身の安否を伝えた。次いで福島と連絡がつかないという旨を告げると、母の声がこわばった。動揺が電話越しに伝わってきて、普段冷静な母からは考えられない様子がそこから窺えた。しかしどうすることもできない。それがただただ心苦しかった。
その後は大学の友人に連絡し、二言三言会話を交わした。とにかく何が起こったのかよくわからなかったし、誰かと話すことで心を落ち着けたかったのだ。

電話を終えると、急に空腹感が襲ってきた。どんなに切羽詰まっている状態でも、空腹だけは規則正しくやってくるのが悲しかった。最後に食べたのは機内食、それも随分と昔のことのように思えた。荷物をやむなく置き去りにしたまま空港内のコンビニへと足を運ぶと、そこには驚くべき光景が展開されていた。100人はくだらない長蛇の列に、入場規制がかかるコンビニ・・そして1時間ほどかけて店内に入ると、目ぼしい食料や娯楽商品はほとんどなくなっているという状態であった。「非常事態」であるということがはっきりと伝わってくる光景だった。何とかカップ麺と電池(店員に聞いたら見つけてきてくれた)を手に入れ、荷物の置いてある「持ち場」へと戻る。こういうときのカップめんの美味しさはひとしおである。

食事を終え、携帯充電器に買ってきた電池をセットしてワンセグを見る。この時初めて各地の状況を目にすることになった。燃え盛る街、津波に飲まれる家々、そして増える一方の被害者の数・・。そこに映る映像はどこか別の世界のもの、あるいは映画か何かのワンシーンのように見えた。あまりにも現実離れしていて、「起こりえない」ことがそこで起こっている。何か悪い夢でも見ているのではないかと何度も思った。そう思いたかった。

しばらくすると「非常用毛布」配布のアナウンスが流れた。受け取る人の長蛇の列には辟易したが、さすがにコンビニほどは時間はかからなかった。毛布を受け取った後、今度は公衆電話に並んで親類への連絡を試みるもやはり不通。しかし、自宅近所の親類には通じ、自宅は無事であること、近所の親戚も無事であることを知った。この情報は、不安一色だった心を少なからず和らげてくれた。

一通りやることを終えると、後は寝るしかない。明日の朝まで、とにかく列車の運転再開を待つだけである。しかし絶え間なく続く余震と底冷えのする寒さ、時差ボケ、そして不安のせいで寝ることもままならない。脳はひどく興奮していたし、頭の中には様々な思いが去来していた。結局眠ることが出来ず、横になったままワンセグを見ていた。しかし「不安な夜」というのは終わりがないのではないか、と思うほど長かった。何度見ても時計はなかなか進んでくれなかった。

3時か4時ごろになり、どうやら始発から京急・モノレールが動くそうだという情報を聞いた。見通しが立つというのがどれほど心強いものか・・このとき改めて思い知った。「見通しがつかない」というのはある意味真っ暗闇の中を彷徨うようなものである。暗闇の中では方向感覚もないし、ひたすら待つことしか出来ない。「見通し」とは暗闇に差す光そのものなのである。とにかく、これでやっと空港から出ることが出来る。ひいては自宅に帰れる―。安堵感が空港内にも漂っていた。

やがて始発の時間になった。改札には運転再開を待ち焦がれた人々が波となって押し寄せ、改札はさながらその流れを食い止めるダムのように見えた。私も一刻も早く空港を出たかったが、その人込みを見て逡巡した。そして人が減るのを待ち、それから改札を抜けた。
思いのほか列車は混雑していなかったが、やはり駅を経るごとに徐々にラッシュの様相を呈すようになっていく。川崎で乗り換えであるが、次に乗る列車は乗車率200%に迫る、あるいはそれ以上の混雑であった。ただでさえその混雑であるのに、こちらはスーツケースという厄介者を連れている。スーツケースを連れて列車に乗ることは躊躇われたし、あまりにも無謀には思えた。しかしこればかりは仕方がない…。何とか列車を選んでスーツケース、そして体ともに列車に乗せることができた。随分と迷惑な客だっただろう。
横浜までの短い時間が、とてつもなく長く感じられた。むしろ時間が止まってしまったかのようにすら思えた。スーツケースを気にしながら、疲れ切ったサラリーマンに囲まれ、ただただ耐えるだけであった。そしてやっとの思いで無事に横浜に辿りついたのだった。まさに「辿り着いた」と言う言い方がふさわしいように思える。
しかし、まだ自宅までは遠い。ここから30キロはある。この時点でもJR線は再開しておらず、仮に再開したとしても先ほどの京急のように混雑するのは火を見るより明らかだった。疲れや睡眠不足もあり、歩く体力もない。やむなくタクシーに賭けることにした。
そう決めるやいなや、すぐにタクシーを待つ人の列に加わる。それほど並んでいたわけではなかったが、1時間近くは待っただろうかと思う。タクシーに乗ると、やっと家に帰れるという安堵感があふれ出た。家に帰る―そんな当たり前のことがこれほど嬉しいことだとは…。

タクシー運転手との会話は専ら地震に関してだった。普段、タクシー内での会話に取り立てて意味はない。それこそ一期一会であるし、無言が気まずいから話す――多くの場合その程度のものだろう。しかし、このときはこの会話にも意味があった。とにかく私は誰かと話したかったのだ。昨日から起こってきたことがあまりにも意味不明で訳が分からなくて、そして非日常的なことばかりだった。漠然とした言い方にはなるが、「自分は正しい場所にいるのか」という確信がもてなかった。ある意味、自分がどこか違う世界に放り出されてしまったかのような気分でもあった。一体ここはどこで、俺は誰だ?そんな感情をうまくつなぎ合わせ、自分をあるべき場所に収めるためには「人との会話」が大きな役割を持っていた。その感覚は以前も味わったことがあったので、会話の重要性というのはよくわかっていた。会話はよどみなく続き、気づけば自宅も迫っていた。

家のドアを開けたのは、アメリカを出てから実に36時間後のこと。朝8時を過ぎた頃だった。眩しい朝日が目にしみる、よく晴れた日だった。



早くもあれから一年。
私も今日14:46、黙祷を捧げました。

あの震災は「過去」のものではない、現在進行形の出来事。
一日も早い復興を祈りつつ、自分たちにできることを常に考えていきたいと思います。

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2012/03/11 Sun. 23:03 | trackback: 0 | comment: 0edit

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